日本資本主義の父・渋沢栄一ってどんな人?

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2024年から発行される予定の新一万円札の肖像画として渋沢栄一が選ばれる見通しとなりました。

 今まで聖徳太子福沢諭吉肖像画が使われてきましたが、彼らのような偉人に肩を並べられるほどの渋沢栄一とは一体誰なのでしょうか。

 

今回は渋沢栄一が残した偉大な功績とその生涯について解説していきたいと思います。

 

 

渋沢栄一を一言で表すなら

スティーブ・ジョブズ孫正義以上の超有能ビジネスマン!

 

最初のスマートフォンであるiPhoneシリーズを発明し、瞬く間にトップシェアを確立したAppleの創業者のスティージョブズや、日本三大通信キャリアのソフトバンク孫正義など、世界には数多くの実業家が活躍していますが、渋沢栄一ほど数々の大企業の設立に貢献した人はいないのではないでしょうか。

もしも渋沢栄一が日本に生まれなかったら日本の経済発展はかなり遅れていたでしょうし、アメリカや中国などと肩を並べられるほどの経済大国には発展していなかったかもしれません。

 

渋沢英一の生涯

  • 1840年(1歳)武蔵国(現在の埼玉県深谷市)の富裕の長男として生を受ける。
  • 1859年(19歳)従兄・尾高惇忠の妹・尾高千代と結婚。
  • 1861年(22歳)江戸で儒学者・海保漁村の門下生となる。
  • 1863年(24歳)尊王攘夷の思想を持つようになり、倒幕を計画するが尾高惇忠に説得され倒幕計画を中止しする。その後、父親から勘当され京都へ向かう。
  • 1864年(25歳)京都から追放命令を受け、一橋慶喜に仕える。
  • 1867年(28歳)パリ万博使節団としてフランスへ渡航
  • 1868年(29歳)明治政府から帰国を命じられ帰国。
  • 1869年(30歳)静岡に商法会所を設立する。大隈重信に説得され大蔵省に入省。
  • 1873年(34歳)退官後、第一国立銀行を開業する。
  • 1875年(36歳)第一国立銀行の頭取となる。商法講習所を創立。
  • 1876年(37歳)東京府養育院事務長となる。
  • 1885年(46歳)東京養育院院長となる。
  • 1901年(62歳)日本女子大学校を開校する。
  • 1916年(77歳)実業界を引退する。
  • 1931年(92歳)永眠。 

 

ここからわかるように、渋沢栄一生きた時代は激動の時代であり、渋沢栄一自身も大きな影響を受けていたことがわかります。

彼の人生で最も大きな転換期は尊王攘夷運動に参加したことでしょう。

江戸後期の日本ではペリーが来航し、尊王攘夷運動が活発化していました。

その活動家の中に渋沢栄一もいたのですが、彼と他の志士たちとの違いは、常に冷静で現実的な思想を持っていたことでしょうか。

自分たちがやろうとしていることでは国は変わらない、自殺行為だとわかっていたのでしょうね。

結果として彼は攘夷側から全くの正反対の立場である幕府に使えつことになります。

そして、ここでも彼にとっての転換期が訪れます。それがフランスへの渡航です。

海外に出ることで資本主義や経済学などの金融領域への深い知見を得た渋沢栄一は、西洋の文明を日本でも活用しようと考えます。

彼が「日本資本主義の父」と賞賛されるようになったきっかけはここにあるのです。

渋沢英一が関わった日本企業は500以上!?

 

 

上にあげた企業はほんの一部です。

どの企業も今の私たちの生活を支えている名だたる大企業ですよね。

これらすべての企業の設立に渋沢英一が関わっているのです。

 

現代でいうと、Appleスティーブ・ジョブズAmazonFacebook、テスラ、UBERなどを設立した感じでしょうか。

 

フツーに考えてヤバイですよね...

 

後の日本の基盤となる企業すべてをたった一人の人間が作り上げてしまったのですから...

 

もしも渋沢栄一がこの日本に生まれなかったら今の日本はあり得なかったと言っても過言ではないでしょう。

実はノーベル平和賞の候補者だった!?

現代日本の経済基盤を作り上げてきた渋沢栄一ですが、実はノーベル平和賞の候補者に選ばれていたことをご存知でしょうか。

しかも、2度もです!

日米関係の良好化に尽力したという理由で、当時の日本の首相である加藤高明若槻礼次郎によって推薦されましたが、残念ながら渋沢栄一は最終的には受賞することができませんでした。

福祉・教育活動にも尽力

渋沢栄一は実業家として有名ですが、自治右派社会活動にも積極的に貢献してきました。

東京慈恵会日本赤十字社、癩予防協会の設立にも携わり、関東大震災直後は被災者のための募金活動を行いました。

また教育面においても大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立、学校法人国士舘の設立、同志社大学の寄付金集め日本女子大学校、東京女学館の設立などにも携わっています。  

その数はなんと600にも及ぶそうです。

数だけで比較すれば、設立に関わった企業よりも多いことがわかります。

渋沢英一の理念と明言

  1.  目的には、理想が伴わねばならない。その理想を実現するのが、人の務めである。
  2. たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる。
  3. 富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。 
  4. 事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。 
  5. 自分が手にする富が増えれば増えるほど、社会の助力を受けているのだから、その恩恵に報いるため、できるかぎり社会のために助力しなければならない。
  6. 我が人生は、実業に在り。

 

彼が残した数多の名言からわかるように、渋沢栄一は公共の利益を第一に考えていました。

資本主義というと、自分の利益を第一に考えていると考えてしまう人もいるかもしれませんが、渋沢栄一が掲げた理念は利益を社会に還元し、より良い社会を実現することを目標としていたのですね。

残念ながら今の資本主義は私利私欲にまみれ、公益を無下にするような、渋沢栄一とは正反対の意味になってしまっているのではないでしょうか。